三郎とおやすみ羊のBMW R1200GSで世界一周の大冒険
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革命とは / Revolution
さて、革命家と名乗っている以上、ワシがどのような革命論を抱いているのか、そして活動しているのかをお伝えしなくてはいけませんね。
かなり長い文章になります。もう少し短く要点をまとめられるといいのですが・・・。
ご意見・ご感想をいただけると嬉しいです。宜しくお願いいたします。
先ずは、目指すべき・到達すべき理想から。
日本に住んでいる人が日本という大地に住んでいて、「幸せだな。」と思える国にすること。
海外から日本を訪れた人々が、「日本て良い国だ。住んでみたいな。」と思えるような国づくりをする。
ワシが16年住んだ国オーストラリア。
オーストラリアを訪ねた多くの外国人が「この国に住みたい。」と思い、また色々な国に住んだことある人が一番良い国にオールトラリアを上げるといいます。
何故なんでしょうか。一つは、文化や歴史の重みがないから、「シガラミ」に囚われない「自由」の中で生活ができるから、と考えます。
もう一つは、雑多な人種・文化が混ざり合った中で、それぞれ尊重しあうところは尊重し合い、まあ、無視するところは無視し合える事実が、「自分らしさ」を自然に出せる環境を育てているのではないでしょうか。
「多様性」を尊重しながら、「自分らしさ」を貫ける。そこに何か鍵があるのでは、と考えます。
そんな雑多な中にも、大多数の人々が‘Australain Spirit'を持っており、オーストラリア人であること、オーストラリアに居住していることに誇りを持っています。まだまだ若い国なので、何がオーストラリアらしさなのかは模索中ですが、その姿勢には魅力を感じます。
それでは、我が日本国は、といいますと。
日本人には、日本人であるをこと、日本に住んでいることに対する誇りを持っている人が少ないのではないかと感じます。
そこで、どうやってその「誇り」を取り戻すかが、1つの課題ですね。
ここで「国家とは国民とは何か?」をワシなりに明確にしてみます。
国家と国民。まあ、例えて言うなら、容器(お猪口)と液体(酒)見たいなモノです。
お猪口はその中に入る酒があって初めて役に立つもの。酒は注ぎいれるお猪口がないとただ流れて蒸発してしまうだけ。両方存在して初めて人は美味い酒を堪能できる。
持ちつ持たれつって奴ですね。
国家がなければ国民は成立しないし、国民が成立しなければ国家は形骸化してしまう。
しかし、そこでは、単に容器と液体が有ればいいというわけではないのです。ワインにはワイングラス、ウィスキーにはロックグラス、酒にはお猪口(升もありか)と中身の液体によって容器はその中身にあったものでなければならないのです。
コーヒーカップでワインを飲んでも美味くないでしょう(え、ホセさん、それでもチリ・ワインは美味いって?)。
それでは、「日本に国家が有るのか?」という疑問があります。
確かに日本国という「国家」は国際的に認知されている。
しかし、果たして日本人は明確な、例えば「日本酒」と定義できる「液体」か?そして、日本国はその「液体」を注ぎいれるのに相応しい「容器」か?となると、そうでは無いだろう、と思うんですね。
現在の日本人という「液体」は敢えて例えるなら立食パーティーで振舞われる「フルーツポンチ」です。どこのパーティーに行っても違う味、ですね、フルーツポンチは。
日本人が「フルーツポンチ」なのは、それは日本人に根幹と為るべき思想・信仰がないからであると思います。
かの新渡戸稲造翁が留学中に、「欧州にはキリスト教という思想・信仰がありそれが基本原理になっている。中国には儒教・道教があり、インドにはインド哲学・ヒンヅー教がる。日本に何の思想・信仰によって根本原理が出来上がっているか?」と質問されたそうです。
新渡戸翁は咄嗟には答えが出なくて、一晩中考えたそうです。「武士道」か?と考えたそうですが、武士道は人口の一割に満たなかった武士だけに通用する思想だし、仏教・神道でもない。結局答えは見つからなかったそうです。
そして日本国という「容器」は「ザル」です。入れたものが溜まらない、流れ出ていくだけ。
よって、日本国の中にいる日本人は確乎たる液体として存在できなく、モンジャ焼きのように、べチョーっとした得体の知れないものになる。これが海外で一般的に「日本人って得体の知れない」とか、「不気味だ」と言われる所以ではないでしょうか?
「全」(国家)と「個」(日本人個人個人)の確立は切っても切れないものです。
「全」としての国家と「個」としての国民:
人は独りでは活きられません(あえてこの漢字を使います)。必ず共同体の中で生活をしています。共同体は小さいものは家族から、大きいものは世界まで。人はその様々な共同体で生活をし、「個」を確立していくものです。
上記で国家を「容器」、国民を「液体」として例えましたが、今回は「食べ物」で例えてみます。
まあ、言うなれば、個は「しいたけ」、「たけのこ」、「鰹だし」なのどの「材料・具」、国家は「煮物」などの一品料理に例えられます。 「しいたけ」だけ食べても旨くはないですよね。「醤油」だけを舐めてみたって、塩辛いだけです。他の材料たちと適切に調理されてこそ、それぞれの素材の「旨味」が引き立って、具の一つ一つ、そして料理全体が旨くなるのです。
人間社会にも同じことが言えると思います。共同体の中で互いに影響し合い、成長し合い、個人個人が輝き、また共同体も輝くっていうものです。他人があってこそ初めて「個」が確立する。
「煮物」という世界があって初めて、「しいたけ」の具としての存在価値が見出される。「しいたけ」は只単に「煮物」の中に入っているのではない。 「煮物」という料理の中で「しいたけ」だけに与えられた役割を果たし、また「しいたけ」だけにしかない「個」を「煮物」という「全体」の中で確立しているのです。
旨い「煮物」の中では材料一つ一つが「個」を主張しながら、料理としての「全体」的にまとまっている。
「全」と「個」が対立していない。だが、ただ調和しているだけでは、材料一つ一つの「個」が確立していなければ、「煮物」は食べていてツマラナイものになってしまうでしょう。
「しいたけ」と「たけのこ」の味、食感が違うからこそ「煮物」を食べていて楽しいのだと思います。だから、旨いのです。
では、「材料」を鍋に放り込んで煮れば旨い「煮物」が出来上がるかというと、そうではないですよね。適切な「調理」が必要です。腕のいい調理人が必要なのです。
「煮物」にはよい調理人を、「国家」にはよい指導者を。しかし、いくら腕のいい「調理人」でも「材料」がつたなければ旨い「煮物」は作れません。材料一つ一つも大事です。「しいたけ」や「たけのこ」は自分の意志で、最高級の「しいたけ」や「たけのこ」に為ることは出来ません。農業者がどのように育てるかでその質が決まってしまいます。
だが幸いなことに人は違います。
勿論、周囲の環境・教育などで、「質」「人格」や「個」が決まる部分もありますが、自身の意思で最高の質に磨き上げることは可能だと思います。
ましてや、我々人はその調理人である「指導者」を選ぶことができるのです。悲しいかな「しいたけ」や「たけのこ」にはそれが出来ません。我々「国民」としての「材料」自らがも調理人ということなのです。我々一人一人が「指導者」を先頭に共同体を作り上げているのです。
旨い「煮物」になるのも、不味い「煮物」になるのも我々次第なのです。
そのことに気付いて生活をしている人々はいったいどれくらいいるだろうか。日本人よ最高級の「個」となれ。そして最高級の「指導者」を育てよ。
日本国が「煮物」という単品料理なら、世界は単品料理で出来上がっている「懐石料理」ですね。今のところ、調理人「国際連合」の腕が悪いせいか、この「懐石料理」は大変アンバランスですね。
人間社会とは:
人類の始まりから、人間社会は他の文化を持った社会と接触、交流、交易、争闘し合いながら互いの文化を形成・発展させてきました。
人は誰しもどれかしらの社会の中で生きているのだから、一人一人が文化の形成・発展に参加しているのです。
文化は異文化との接触、影響によってのみ存在・発展し得ます。単一社会・単一文化が有り得ないように、人間独りでは「個」を確立できませんし、ましてや生きられません。
他人との接触、交流が必要であり、個人の形成・成長には社会という基盤・枠が必要なのです。
「国家」とか「世界」という大きな概念となると、自分とは遥か遠くの存在と感じてしまうかもしれませんが、考えてみれば、自分もその「社会」の中の一構成員なのであり、他の誰とも劣らない重要な存在なのです。
愛国心と国粋主義(ナショナリズム):
一個人は「社会」の構成員であり、その「社会」という「共同体」のなかで生きて行く。当然そこには、自分の属する「共同体」への愛着心、贔屓目(ひいきめ)、逆に嫌悪(けんお)などの、自身が密着していればこその感情が生まれます。
現在の日本人には「絶対的価値観で母国を愛する」というこが足りないと思います。「他国と比べてどこかいい、どこが悪い」というな相対的な見方ではなくて、単に「日本が好きだ」と言い切れるような、感情が。
それが都道府県くらいの単位になると、俄然(がぜん)感情が溢れ出してくる。 「やっぱ、山口県好き」、「滋賀はいいとこやで~」みたいな。
でも、国になると突然見方が政治的になるというか、思想的になるというか。感情的ではなくなってしまうんですよね。
自分が育ったまた住んでいる社会を背負って「個」とは確立するものであるのなら、その「社会」を愛することによって、自己愛も始めて完結するのだと思います。現在の多くの日本人に見られる自己愛は、多分に「自己中心的、無責任」なエゴなのではないでしょうか。
愛国心があって始めて自分を自分を包み込んでいる周囲のものを理解し愛し、誇りを持って活きていけるのではないでしょうか。
しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、「愛国心」を「国粋主義」(ナショナリズム)と同意儀であると思ってしまうことです。
「国粋主義」とは簡単に例えると、「日本はここが他の諸外国よりも優れている」とか「だから日本は他の国より偉いんだ」とか言う感情です。これは危険な思想です。この思想を持って諸外国の方々と接すれば、必ずその関係に歪(ひずみ)を残します。
国際社会に出て活きて行く(であろう)これからの日本人に必要なのは、おのれ自身の「個」の確立であって、それには「国家」の確立も不可欠だということです。
「個」と「国家」はあくまでも持ちつ持たれつの関係であって、双方が成長しあって始めて、一端(イッパシ)の国際人入門者になれるのだと思います。
さて日本国という国家は世界的に見てどうでしょうか? 今のところ中途半端な「国家」だと思います。
そこで、皆さん、忘れてはいけないのは、我々は世界の中で生きているのです。今現在の日本国ではこれからの変わり行く世界から日本国民を幸せに暮らせるよう守っていくことが出来ないのではないでしょうか。
そんなの悲しくないですか?
ワシは悲しいです。
だけど、皆さん、我々は一人一人最高の素材に慣れるんです。
そして日本という「国家」を最高の「料理」に成長させることができるのです。
そして周りの「料理」と働きかけて全体の献立を最高のものに仕立てることもできるのです。
国家は世界は遠い存在ではないのです。
己自身に直結しているものであり、己の幸せに繋がっているのです。
何故なら、「懐石料理」の最高のモテナシを受けるに値する各人は我々一人一人に他ならないのです!
まとめますと、ワシの革命論とは日本人の大多数が「最高の素材」になり、それを最大限に活かすことのできる「日本国家」を具現化することなのです。
それには、世界観を多少なりとも身に付けた、多様性の大切さを見に付けた、旅人が日本改革の中心になってもいい、いやむしろ、中心になるべきだなのです。
視野を大きく持て。
世界を見よ。
己を限定するな。
隣人と交わり、多くを学び合え。
そして己自身を良く見つめよ。
全ては繋がり、己は全てに影響を受けまた全てに影響を及ぼせるのだ。
日本人よ、世界平和は我々一人一人の生き様に懸かっている。
かなり長い文章になります。もう少し短く要点をまとめられるといいのですが・・・。
ご意見・ご感想をいただけると嬉しいです。宜しくお願いいたします。
先ずは、目指すべき・到達すべき理想から。
日本に住んでいる人が日本という大地に住んでいて、「幸せだな。」と思える国にすること。
海外から日本を訪れた人々が、「日本て良い国だ。住んでみたいな。」と思えるような国づくりをする。
ワシが16年住んだ国オーストラリア。
オーストラリアを訪ねた多くの外国人が「この国に住みたい。」と思い、また色々な国に住んだことある人が一番良い国にオールトラリアを上げるといいます。
何故なんでしょうか。一つは、文化や歴史の重みがないから、「シガラミ」に囚われない「自由」の中で生活ができるから、と考えます。
もう一つは、雑多な人種・文化が混ざり合った中で、それぞれ尊重しあうところは尊重し合い、まあ、無視するところは無視し合える事実が、「自分らしさ」を自然に出せる環境を育てているのではないでしょうか。
「多様性」を尊重しながら、「自分らしさ」を貫ける。そこに何か鍵があるのでは、と考えます。
そんな雑多な中にも、大多数の人々が‘Australain Spirit'を持っており、オーストラリア人であること、オーストラリアに居住していることに誇りを持っています。まだまだ若い国なので、何がオーストラリアらしさなのかは模索中ですが、その姿勢には魅力を感じます。
それでは、我が日本国は、といいますと。
日本人には、日本人であるをこと、日本に住んでいることに対する誇りを持っている人が少ないのではないかと感じます。
そこで、どうやってその「誇り」を取り戻すかが、1つの課題ですね。
ここで「国家とは国民とは何か?」をワシなりに明確にしてみます。
国家と国民。まあ、例えて言うなら、容器(お猪口)と液体(酒)見たいなモノです。
お猪口はその中に入る酒があって初めて役に立つもの。酒は注ぎいれるお猪口がないとただ流れて蒸発してしまうだけ。両方存在して初めて人は美味い酒を堪能できる。
持ちつ持たれつって奴ですね。
国家がなければ国民は成立しないし、国民が成立しなければ国家は形骸化してしまう。
しかし、そこでは、単に容器と液体が有ればいいというわけではないのです。ワインにはワイングラス、ウィスキーにはロックグラス、酒にはお猪口(升もありか)と中身の液体によって容器はその中身にあったものでなければならないのです。
コーヒーカップでワインを飲んでも美味くないでしょう(え、ホセさん、それでもチリ・ワインは美味いって?)。
それでは、「日本に国家が有るのか?」という疑問があります。
確かに日本国という「国家」は国際的に認知されている。
しかし、果たして日本人は明確な、例えば「日本酒」と定義できる「液体」か?そして、日本国はその「液体」を注ぎいれるのに相応しい「容器」か?となると、そうでは無いだろう、と思うんですね。
現在の日本人という「液体」は敢えて例えるなら立食パーティーで振舞われる「フルーツポンチ」です。どこのパーティーに行っても違う味、ですね、フルーツポンチは。
日本人が「フルーツポンチ」なのは、それは日本人に根幹と為るべき思想・信仰がないからであると思います。
かの新渡戸稲造翁が留学中に、「欧州にはキリスト教という思想・信仰がありそれが基本原理になっている。中国には儒教・道教があり、インドにはインド哲学・ヒンヅー教がる。日本に何の思想・信仰によって根本原理が出来上がっているか?」と質問されたそうです。
新渡戸翁は咄嗟には答えが出なくて、一晩中考えたそうです。「武士道」か?と考えたそうですが、武士道は人口の一割に満たなかった武士だけに通用する思想だし、仏教・神道でもない。結局答えは見つからなかったそうです。
そして日本国という「容器」は「ザル」です。入れたものが溜まらない、流れ出ていくだけ。
よって、日本国の中にいる日本人は確乎たる液体として存在できなく、モンジャ焼きのように、べチョーっとした得体の知れないものになる。これが海外で一般的に「日本人って得体の知れない」とか、「不気味だ」と言われる所以ではないでしょうか?
「全」(国家)と「個」(日本人個人個人)の確立は切っても切れないものです。
「全」としての国家と「個」としての国民:
人は独りでは活きられません(あえてこの漢字を使います)。必ず共同体の中で生活をしています。共同体は小さいものは家族から、大きいものは世界まで。人はその様々な共同体で生活をし、「個」を確立していくものです。
上記で国家を「容器」、国民を「液体」として例えましたが、今回は「食べ物」で例えてみます。
まあ、言うなれば、個は「しいたけ」、「たけのこ」、「鰹だし」なのどの「材料・具」、国家は「煮物」などの一品料理に例えられます。 「しいたけ」だけ食べても旨くはないですよね。「醤油」だけを舐めてみたって、塩辛いだけです。他の材料たちと適切に調理されてこそ、それぞれの素材の「旨味」が引き立って、具の一つ一つ、そして料理全体が旨くなるのです。
人間社会にも同じことが言えると思います。共同体の中で互いに影響し合い、成長し合い、個人個人が輝き、また共同体も輝くっていうものです。他人があってこそ初めて「個」が確立する。
「煮物」という世界があって初めて、「しいたけ」の具としての存在価値が見出される。「しいたけ」は只単に「煮物」の中に入っているのではない。 「煮物」という料理の中で「しいたけ」だけに与えられた役割を果たし、また「しいたけ」だけにしかない「個」を「煮物」という「全体」の中で確立しているのです。
旨い「煮物」の中では材料一つ一つが「個」を主張しながら、料理としての「全体」的にまとまっている。
「全」と「個」が対立していない。だが、ただ調和しているだけでは、材料一つ一つの「個」が確立していなければ、「煮物」は食べていてツマラナイものになってしまうでしょう。
「しいたけ」と「たけのこ」の味、食感が違うからこそ「煮物」を食べていて楽しいのだと思います。だから、旨いのです。
では、「材料」を鍋に放り込んで煮れば旨い「煮物」が出来上がるかというと、そうではないですよね。適切な「調理」が必要です。腕のいい調理人が必要なのです。
「煮物」にはよい調理人を、「国家」にはよい指導者を。しかし、いくら腕のいい「調理人」でも「材料」がつたなければ旨い「煮物」は作れません。材料一つ一つも大事です。「しいたけ」や「たけのこ」は自分の意志で、最高級の「しいたけ」や「たけのこ」に為ることは出来ません。農業者がどのように育てるかでその質が決まってしまいます。
だが幸いなことに人は違います。
勿論、周囲の環境・教育などで、「質」「人格」や「個」が決まる部分もありますが、自身の意思で最高の質に磨き上げることは可能だと思います。
ましてや、我々人はその調理人である「指導者」を選ぶことができるのです。悲しいかな「しいたけ」や「たけのこ」にはそれが出来ません。我々「国民」としての「材料」自らがも調理人ということなのです。我々一人一人が「指導者」を先頭に共同体を作り上げているのです。
旨い「煮物」になるのも、不味い「煮物」になるのも我々次第なのです。
そのことに気付いて生活をしている人々はいったいどれくらいいるだろうか。日本人よ最高級の「個」となれ。そして最高級の「指導者」を育てよ。
日本国が「煮物」という単品料理なら、世界は単品料理で出来上がっている「懐石料理」ですね。今のところ、調理人「国際連合」の腕が悪いせいか、この「懐石料理」は大変アンバランスですね。
人間社会とは:
人類の始まりから、人間社会は他の文化を持った社会と接触、交流、交易、争闘し合いながら互いの文化を形成・発展させてきました。
人は誰しもどれかしらの社会の中で生きているのだから、一人一人が文化の形成・発展に参加しているのです。
文化は異文化との接触、影響によってのみ存在・発展し得ます。単一社会・単一文化が有り得ないように、人間独りでは「個」を確立できませんし、ましてや生きられません。
他人との接触、交流が必要であり、個人の形成・成長には社会という基盤・枠が必要なのです。
「国家」とか「世界」という大きな概念となると、自分とは遥か遠くの存在と感じてしまうかもしれませんが、考えてみれば、自分もその「社会」の中の一構成員なのであり、他の誰とも劣らない重要な存在なのです。
愛国心と国粋主義(ナショナリズム):
一個人は「社会」の構成員であり、その「社会」という「共同体」のなかで生きて行く。当然そこには、自分の属する「共同体」への愛着心、贔屓目(ひいきめ)、逆に嫌悪(けんお)などの、自身が密着していればこその感情が生まれます。
現在の日本人には「絶対的価値観で母国を愛する」というこが足りないと思います。「他国と比べてどこかいい、どこが悪い」というな相対的な見方ではなくて、単に「日本が好きだ」と言い切れるような、感情が。
それが都道府県くらいの単位になると、俄然(がぜん)感情が溢れ出してくる。 「やっぱ、山口県好き」、「滋賀はいいとこやで~」みたいな。
でも、国になると突然見方が政治的になるというか、思想的になるというか。感情的ではなくなってしまうんですよね。
自分が育ったまた住んでいる社会を背負って「個」とは確立するものであるのなら、その「社会」を愛することによって、自己愛も始めて完結するのだと思います。現在の多くの日本人に見られる自己愛は、多分に「自己中心的、無責任」なエゴなのではないでしょうか。
愛国心があって始めて自分を自分を包み込んでいる周囲のものを理解し愛し、誇りを持って活きていけるのではないでしょうか。
しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、「愛国心」を「国粋主義」(ナショナリズム)と同意儀であると思ってしまうことです。
「国粋主義」とは簡単に例えると、「日本はここが他の諸外国よりも優れている」とか「だから日本は他の国より偉いんだ」とか言う感情です。これは危険な思想です。この思想を持って諸外国の方々と接すれば、必ずその関係に歪(ひずみ)を残します。
国際社会に出て活きて行く(であろう)これからの日本人に必要なのは、おのれ自身の「個」の確立であって、それには「国家」の確立も不可欠だということです。
「個」と「国家」はあくまでも持ちつ持たれつの関係であって、双方が成長しあって始めて、一端(イッパシ)の国際人入門者になれるのだと思います。
さて日本国という国家は世界的に見てどうでしょうか? 今のところ中途半端な「国家」だと思います。
そこで、皆さん、忘れてはいけないのは、我々は世界の中で生きているのです。今現在の日本国ではこれからの変わり行く世界から日本国民を幸せに暮らせるよう守っていくことが出来ないのではないでしょうか。
そんなの悲しくないですか?
ワシは悲しいです。
だけど、皆さん、我々は一人一人最高の素材に慣れるんです。
そして日本という「国家」を最高の「料理」に成長させることができるのです。
そして周りの「料理」と働きかけて全体の献立を最高のものに仕立てることもできるのです。
国家は世界は遠い存在ではないのです。
己自身に直結しているものであり、己の幸せに繋がっているのです。
何故なら、「懐石料理」の最高のモテナシを受けるに値する各人は我々一人一人に他ならないのです!
まとめますと、ワシの革命論とは日本人の大多数が「最高の素材」になり、それを最大限に活かすことのできる「日本国家」を具現化することなのです。
それには、世界観を多少なりとも身に付けた、多様性の大切さを見に付けた、旅人が日本改革の中心になってもいい、いやむしろ、中心になるべきだなのです。
視野を大きく持て。
世界を見よ。
己を限定するな。
隣人と交わり、多くを学び合え。
そして己自身を良く見つめよ。
全ては繋がり、己は全てに影響を受けまた全てに影響を及ぼせるのだ。
日本人よ、世界平和は我々一人一人の生き様に懸かっている。
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やはりブラジルよりもコロンビアです。
一度外に出て、いろんな場所でいろんな国の人と出会ってはじめて自分の国のことを考えるのかも。一度も出た事のない人にとって“国”単位での比較はテレビやネット頼りで実感が伴わないのでしょう。
旅をしている(してきた)人がブログや写真で周りに伝えるというのも重要な革命活動ということですね!
そうですね、日本には素晴らしい文化がありますね。他国を見回しても日本みたいな文化は有りませんね(まぁ、何処の文化も無二のものですが)。私も日本の文化が大好きで、日本人に理解を深めて欲しいですし、もっともっと海外の方に伝えたいです。
教育は大切ですね。教育で改革していくのは長い時間がかかりますが、一番正しいやり方だと私も思います。出来ることなら急激な変革は避けたいのが本音です。しかし、今の状況を見ているとある部分は急激に変革しなければ、日本がこのまま落ちていく、と懸念しております。
「革命」的に急激な変化をしたあとも、着実に教育などで改革を進めていくのは大切なことだと思います。
今のシステムですと教育の方も改革がなかなか出来ないのが実情ですね。しかし私の友人の何人かは教師となり、地道に教育から日本を改革することを取り組んでいます。彼らの「出来ること」をしっかりとやっている友人たちを私は尊敬しています。
確かに日本人は一見異文化や思想に対して受容し、尊重しているようにも見えますが、実際どうなのでしょう。「多様性」を尊重することが日本では欠けているように見受かられます。もちろん、日本以外の国々でも異文化や信仰に対して排他的だったりしますが。
日本の歴史を考えれば「多様性」が欠けているのは仕方の無いことなのでしょうが、この先の日本が世界の中で生き延びていくには「多様性」にかかっていると考えます。
これからもご意見を頂けたらと思います。よろしくお願いいたします。
確かに日本に留まっていると、それが「当たり前」と思い見えない部分が多いのでしょうね。
外の世界に出てみる、というのは普段の「当たり前」から脱却し、価値観を広げる大いなる機会となりますね。
しかし、実際に自分で世界に出たい、と思って出てみないと見えるものも見えなくなりますね。
多くの日本人の好奇心がもっと外に向けばいいのですが。
私も日本刀や着物が好きです。ちょっと話はずれてしまいますが、今世界で「洋服」が着られ続けているのは、機能的に「進化」し続けているからでしょうね。洋服にも正装とカジュアルがあるように、和服の世界にももっとカジュアルに現代生活に合った機能的なものがあればもっと市民権を得ると思うのですが(浴衣はもともとカジュアルな和服なのですが、進化が江戸時代で止まってますからね)。
日本の伝統は素晴らしいですが、頑なに守る必要は無いと思います。いい文化・伝統は残っていきますし、文化・伝統は生き物なので時代の変遷とともに変わっていくべきものだと私は考えます。
「廃国置都」ですか。面白い表現ですね。愛国心は郷土愛の延長線上にあるので可能だと思います。
日本のいわゆる「伝統」的なやり方にはとらわれない柔軟な考え・やりかたが必要ですね。
これからもご意見を聞かせてください。私には見えないもの、考えたことが無いこと、を。そうしてお互いに刺激しあって良いモノを造っていきましょう。
そうだね、「旅をしている(してきた)人がブログや写真で周りに伝える」ことは大変重要な革命活動だよ。芸術は本当に人の心の中核に訴えるから、すっごく影響力のあるものだからね。芸術(文学、絵画、写真、音楽)によって時代が動いたことも多々あるからね。
イシマルのあの素晴らしい写真。それを見ただけで価値観が変わる人もいると思うよ。
人それぞれ特性や才能が違うから、自分に合ったやりかたで社会に対し活動していくことが大切なんだと思う。そして個人個人の活動だけではなく、団体として横でつながって活動していけば、きっと大きな変革につながっていくと信じているよ。
これからも意見・感想をよろしくね。
とてもいい文章でした。わたしは20年くらいデザイナーという仕事をしています。そんな仕事柄から感じてる事を書きますね。日本ってスクラップ&ビルド(壊して作る)する事に優れてる民族だと思います。これはヨーロッパ等に見られる建物など直して維持するっていうのと反対の行動です。壊して作るっていう時に必ず入ってくるの「異文化」の取り入れ。そこら中に多国籍的なモノがある事に日本の他国に対する考えがあるのでしょう。憧れであり、遣唐使から続く航海好きの民族性なのかな?って思います、でも鎖国なんてしたり。だから日本人って明確な例えって難しい、いままでいろんなモノを取り入れ変わって来たから。日本ってリーダーに慣れない国なのかもしれません、他を見て自国に取り入れる、そして追求しいつのまにか取り入れた国を技術的に追い越してる。それが日本の大企業の出来上がった経緯だと思うし、追い越したけど見本が無くなると路頭に迷う。そんな時にAppleみたいな製品が出て来て負けてしまう。ザルとか得体の知れない、っていう表現、良くわかります。国民より地元意識、たしかに。まとまりが無いのは単一民族と言われながらも地元にこだわる。
まあ長くなるのでこの辺で、日本に来た時にでも。(WTN-Jには良く顔出してます。)
自分は43歳になりましたが
自分なりの人生とはこうゆうものだ
ということがわかってきたように思います。
「最高の素材」へは、これからの人生かけて
360度の視野をもち、多種多様の経験を
少しでも楽しんでいけたらと思っています。
三郎さんの人生かけての「革命」
一人でも多く伝えていってください!
行動力、尊敬します!!
いつも応援ありがとうございます。
「360度の視野」いいですね!私もますます成長して「最高の素材」になっていきます!
そして多くの「最高の素材」と一緒に最高の日本を創って行きたいです。
Yoshiさん、一緒にやていきましょう!
>興味深く読ませていただきました。
>自分は43歳になりましたが
>自分なりの人生とはこうゆうものだ
>ということがわかってきたように思います。
>「最高の素材」へは、これからの人生かけて
>360度の視野をもち、多種多様の経験を
>少しでも楽しんでいけたらと思っています。
>
>三郎さんの人生かけての「革命」
>一人でも多く伝えていってください!
>行動力、尊敬します!!
「革命とは」は最近ブログのデザインを一新したことにより、「日記だけではなくもっともっと私の考えていることを掲載していこう」、ということで掲載いたしました。
お褒め頂き、大変嬉しいです。この文章は元々2006年3月に私がMixiに掲載したものなのです(今回ちょっと手直しをしましたが)。
丁度「何か日本のために自分がしよう」と実行に移し始めた時期でした。あれから6年経ってますが、日本の現状はますます厳しいものになっています。私自身も更に成長し、「革命の輪」を広げて行きたいです。
デザイナーのお仕事ですか。「何かを創り出す」ことは凄く素敵ですね。
確かにご指摘の通り、日本の歴史を振り返るといつも「舶来品」が日本の時代時代をリードしていたことが多いですね。日本は見本にするべきものが見つからなくなり、路頭に迷っている。その通りですね。
やはり文章で伝えられることと伝えられないことがありますね。日本でお会いできることを楽しみにしております!
これからも私とは違う視点からのご意見をよろしくお願いいたします!
また、時間を見つけて書きますよ!
なんか意見あったら聞かせてね。
バックパッカーが一つの媒介として世の中にムーブメントを起こしてもいいんじゃないか!?
そんな話が今でも興味深かったのを覚えてます。
いい意味で最高の素材になれるよう…
帰国後やれることをやっていこうかと思います。
今のところどんな形になるかはわかりませんが。
思想を行動という形に変えることが今の日本にとっては必要なのかもしれませんね!
もっと語り合いたかったね。
「思想を行動という形に変える」。その通りだね。お互いやれるだけやってみよう。
これからもお互いに感じたことや意見を交換していこう。そうすればより良いモノが生まれてくるよ。
革命といったドラマチックなことはもはや起こらないということは、ほとんど全ての国民がわかっている気がします。
改革を起こすにしても、政治経済の専門的な知識が必要で、なければ到底できないことのように思えます。そもそも旅行しているだけで革命ができるなら、すでに革命は起きているのではないでしょうか?
嫌味ではありません。ただ、そう疑問に思うだけです。
ちなみに僕もパッカー経験者です。
が、しかし、だからと言って「革命」や「変革」が必要でない、ということにはなりません。
革命や変革を実際に起こして、更にそれをいい方向に持って行くのには政治経済の専門家の知識や経験も必要でしょう。
しかしながら、彼らにこの国の運営を任せっぱなしで良いのでしょうか?
日本国は建前上「民主主義」国家です。民主主義を機能させるには、我々国民の一人一人が国政に責任を持たなければいけません。
政治党や政治家云々、という前に我々国民が意識を持たなければ、なかなか物事も変わらない、と考えます。
私の存在は小さく、また出来ることも今のところ限られています。だからと言って手をこまねいていては、本当に何も変わりません。
私が出来ること、どんなに小さくてもいいから、それからやっていこうと。
では、私の特性は?となると、海外での経験ですね。旅をしながら、いろいろなことを学び、他の旅人と出会い、意見を交換し、協力しあって新しいものを創って行く。私が話をしたことによって、目が開いた、と言ってくれた旅人も多数います。また、私の目を開かせた出会いも多数あります。
旅人は多少なりとも、異文化に触れ、日本に居てはできない経験をしています。
その特性を活かして、日本という祖国に貢献できないものか、と。
我々旅人が得て持って帰った「モノ」がこれからの日本の方向性に役に立ち得るのではないか、と。
具体的には、今の私が日本でなんだかんだ言っても聞いてもらえないと思います。
なので、本帰国後には、日本の皆さんに私が提唱していることの「見本」を見せるしかないのです。
この旅で出来た仲間や以前からの同志たちとで、「町おこし」という形で提唱したいと考えています。
我々のやり方が世間一般的に「成功」し、注目を頂けたら多少でも我々の話を聞いてもらえる、と。
それから、拡大していけばいいのではないでしょうか。
我々が主流にならずとも、一つの流れは創り出せる、そう信じて居ます。
その後で、様々な分野の専門家さんたちのご協力が得られれば、大きな流れになります。
とにかく、諦めてしまっては何も起こりません。
私の信じる「革命」とは民衆・国民の意識改革です。その上で、今現在のシステムを打破し、これからの日本を創り上げて行くことです。
何事にも段階があります。
まだまだこの三郎も組織も未熟ですが、少しずつ、しかし、確実に前進していきます。
もし、その流れに室橋さんも室橋さんの特性を持って参加していただければ、幸いです。
ご意見、本当にありがとうございます!
> 具体的にはどういった方法で革命を起こすのでしょうか?
>革命といったドラマチックなことはもはや起こらないということは、ほとんど全ての国民がわかっている気がします。
> 改革を起こすにしても、政治経済の専門的な知識が必要で、なければ到底できないことのように思えます。そもそも旅行しているだけで革命ができるなら、すでに革命は起きているのではないでしょうか?
> 嫌味ではありません。ただ、そう疑問に思うだけです。
> ちなみに僕もパッカー経験者です。